創業者:『海野俊治』

昭和35年6月9日 海野俊治と柏倉茂雄

昭和35年6月9日 創業者:海野俊治と従業員第一号:柏倉茂雄 (健治撮影)

創業者:海野俊治は、1903年(明治36年)7月7日、海野貞蔵と美津の息子として生を預かった。幼少の頃は、現在の寒河江市金谷の大沼家に学校に入るまで預けられたりしていた。その後、尋常小学校に入学するため左沢に戻り、1917年(大正6年)に尋常高等小学校を卒業した。そして、その後は山形市内の酒問屋で番頭として働くことになった。
しかし、元来、新しい物好きの俊治は、酒の卸業に興味を見いだせなかった。そして1923年頃(大正13年)、20歳の徴兵検査を終えたあと、東京へと旅立つ。

.。.:*・゜☆.。.:*・゜★.。.:* ☆.。.:*.。.

訪れた東京ではバネ工場で働くようになった。その合間を見て、その当時にしては珍しい英語学校に通ったりもしていた。そんな時、ひょんなことから日本橋にある呉服屋で働くことになった。その呉服店の番頭をしているとき、ラジオに興味を持ったのだという。そんな俊治は、ラジオを作る学校に通ったりして、ラジオの作り方をマスターしていったのだった。

なぜ、創業者:俊治はラジオに興味を持ったのか?
その当時、東京では新しく始まるラジオ放送に街中の注目が集まっていた。1924年に皇太子御成婚奉祝式典(昭和天皇)や衆議院選挙などを実験的に中継し、ラジオという新しいメディアへの期待ムードが高まっていたと思われる。ラジオ受信機の製作に関する雑誌なども多数出版されたという。そして、1925年(大正14年)に愛宕山より東京放送局(現NHK)によるラジオ放送が開始された。

そんな時代背景の中、東京にいた誰もがラジオに興味を持ってもおかしくない。俊治は、持ち前の好奇心よりラジオ放送にいたく興味を持ち、鉱石ラジオを作り楽しんだという。

1926年、元号が大正から昭和に変わった。
その年、海野俊治は23歳。当時『能中屋』という名前で炭問屋や金物屋を営んでいた海野家に呼び戻され、故郷左沢に戻る。そして、能中屋を継ぐことになるのだった。

.。.:*・゜☆.。.:*・゜★.。.:* ☆.。.:*.。.

その当時、主に金物屋だった能中屋に、東京で手に入れたラジオを置いていたところ、みんなが珍しがったという。東京で話題のラジオは、山形では新聞では知っていたものの現物を見たことがなかったのが大半だったのである。そのため、金物よりもそっちに興味を惹かれたお客さんは、ラジオを作って売って欲しいと俊治に頼んだという。頼まれた俊治は、東京へ部品の買い付けに行き、作っては売る、作っては売ることで商売にしていったのだった。

昭和に入ると、各電機メーカーからも真空管式のラジオの完成品が売られる様になった。しかし、既製品はまだまだ高価なため、受信機を製作して売ってくれという人が多かったという。そういう客を取り込みながら、創業者はラジオ販売を確固たる物にしていったのだった。
その後、俊治は、滝川なつゑと結婚し家庭を築くことになった。
しかし、昭和11年、汽車の開通に湧く左沢を突如大火が襲う。栄華を誇った左沢は半分が焼け野原となってしまった。能中屋も跡形もなく燃えてしまったのだった。
人々が焼け野原に呆然と立ち尽くし、自分たちの持ち物をほり探しているとき、俊治は、金物屋をやめ、ラジオ屋一本で生活していくことに決めたのだった。ちょうどその年、社団法人日本放送協会山形放送局が開局した。

Retro Radio

松下電器製作所製真空管式ラヂオ

その後は、第二次世界大戦を乗り越え、故清野源太郎氏の商事会社「昭栄」と契約を取り交わし、松下電器製の製品を取り扱うようになる。昭和25年頃より、電球と合わせて蛍光管を販売するようになった。また電気洗濯機、電気冷蔵庫もこの頃より販売されるようになる。
そして電器店にさらに追い風が吹いた。テレビという新しい情報メディアの発売である。昭和28年には東京で放送が開始され、その話題はラジオで地方にも届けら期待に胸が膨らんだ。
昭和31年には、仙台でテレビ放送が開始されるようになった。山形では、仙台より電波を受けいち早くテレビを楽しむ人たちもいたという。
さらに、扇風機、電気アイロン、炊飯器など、電器店の店頭は賑やかになっていくのであった。

そして、昭和33年4月、その年高校を卒業した、二代目の海野健治が海野ラヂオ店で本格的に働くことになった。それは、山形で総合テレビジョンの放送局が開局する一年前のことだった。


  • トラックバック 停止中
  • コメント (8)
  1. いや~、この話、たまらんですね。
    そのまま映画にでもなりそうなシナリオですよ。
    映像がそのまま浮かびました。

    続きも楽しみにしています。

      • カイノ社長
      • 2011年 2月8日

      ひでおさん

      うれしいコメントありがとうございます。また、ブログやツイッターでのご紹介大変ありがとうございます。
      父に昔を思い出してもらい、文章を起こしました。まるでタイムスリップしたかのような感覚でした。

      続きも頑張ります。

  2. 素敵な歴史のお話ですね。
    本当に映画になりそうですね。
    今後のざぶんさんの登場も楽しみです。

      • カイノ社長
      • 2011年 2月9日

      さおりさん

      ちょっとノスタルジックなお話です。
      わたしも亡くなった祖父の若い時代に会えた旅となりました。

      私の登場はまだまだ先かな?

  3. いやいやたまりません。ノスタルジックだわぁ。
    「カイノ電器物語」でドラマが一つ出来そうなくらい。
    当時始めてのラヂオに、お客様は目をきらきら輝かせてたんでしょうね。
    ワタシも続きがとてもとても楽しみです。

      • カイノ社長
      • 2011年 2月10日

      mieさん

      おぉ。ありがとうございます。
      皆さん、ノスタルジックな話題にはくい付きがいいみたいですね(笑)
      心ある方がドラマ化したくなるぐらいの内容になるよう頑張ります!

      そういえば、お客様が、「ラジオの前で正座して玉音放送(昭和天皇の肉声放送)を聴いていた」と言ってました。

      ちなみに、トップページにあるラジオも終戦の玉音放送を鳴らしたそうですよ。

    • 2011年 2月10日

    カイノ電器さまの歴史の一端を知ることができて、うれしくなりました。
    同時にその時代にタイムスリップした感覚になり、大きく変化する時代に
    わくわくしている自分がいました。

    海野社長誕生までの話も非常に興味あります。

    ラジオ好きな私にはたまらない話と、写真でした・・・。

      • カイノ社長
      • 2011年 2月12日

      Sさん

      さすが、マニア。お目が高い・・・

      これからも話は続きます。ぜひ追いかけてくださいね。

      御愛読よろしくお願い申し上げます~

コメント 停止中