揺れる街

3月11日?、大江店のカウンターで仕事をしている時、展示しているテレビから緊急地震速報の音がなった。先日も大きい地震があったばかりで、事務所の奥にいたお義母さんに軽い感じで、

「緊急地震速報だって。山形もだ。」

と言ったとたん、揺れは始まった。とっさに見上げた時刻は午後2時45分ぐらいか。それは長く強い横揺れだった。
おさまらない。ちょうど帰って来た課長と二人、思わずグラグラと動きはじめたテレビを押さえた。

「震源は宮城か新潟か!? 」

大型地震多発地帯に挟まれた山形の人は皆、とっにその震源地が頭をよぎったはずだ。
「パチパチッ 」と小さく小刻みな嫌な音と共に、電気が消えた。地震とともに停電する、これは間違いなく大きな地震だ。
山形でさえこの揺れ。震源地の方はさぞ酷い状況に違いない。ふと、ある考えがよぎった。

(一年生の三男は、帰宅したのだろうか。)

まだだとしても、学校に通う三人の子供達、きっと、先生方が、必死で守っていて下さるはずだ。

しかし、ふと外を見ると、店の前を三男と同じ一年生の子供達が通って行った。

(下校途中のこの子達は大丈夫だったのか?)

と思った瞬間私は我に帰った。同級生達が帰宅途中だと言う事は、三男はすでに自宅に戻っているはず。私は慌てて車に乗り、自宅へ向かった。すでに街の信号も消えていた。
自宅に着くなり、三男の名を叫び玄関の戸を開けた。三男がバァッと部屋から飛び出して来て、私の腕をつかんだ。不安そうに潤んだ目。

「大丈夫か!どこに隠れてた!」

と大声で聞く私に

「机の下!」

としっかり応える三男。誰もいない自宅に戻り、ランドセルを置きジャンバーを脱いだとたん揺れが始まった。すぐに茶の間のテーブルの下に潜ったのだが、おさまらない揺れに、私とおばあちゃんのいる店に電話をしようと隣の部屋に移動したものの電話はつながらず、その場にある机の下に潜るしかなかったのだそうだ。
私は思った。この非常事態にも関わらず、とっさに机の下に身を隠しその後も電話をしなければとよく一人で判断できた、と。私は三男の体をさすりながら

「一人でよく頑張ったな!」

と思いっきり褒めてあげた。そして、この緊急事態に三男が臨機応変に対応できたのも、これまで保育園や小学校で繰り返し行って来た避難訓練の賜物であると、心から先生方に感謝した。
会社に帰る途中、念のため小学校にも行ってみた。すでに心配して駆け付けた親たちで、学校付近の駐車場や道路は一杯になっていた。ロビーに集まる親たちに、学校側は

「今は子供たち全員を体育館に避難させている。後程集団下校させるので、こうして親が迎えに来たからと言って特別な事情がない限り、個人的に子供を返す事はしない。」

と報告していた。それに対して意見のある親もいたようだが、私は学校側の説明は最もだと思った。先生方は自分の子供ではない大勢の子供たちを必死で守って下さっているのだ。ならば、その気持ちに応えて子供を全面的に学校に預けよう。私は三男を連れ、急ぎ店に戻った。

到着するや否や、次々とお客様が現れた。単一・単二乾電池、懐中電灯、ラジオ。もはや用を成さずに開けっ放しにした自動ドア。薄暗いカウンターは停電用の備品を求めるお客様で溢れ返った。
レジの代わりに計算機。この忙しい最中、ソーラー電池の計算機はとんでもない金額をはじき出すほど日は暮れていった。ラジオの保証書作成・入金にお釣り。急激な事態の変化に、男性従業員も店に待機。全員の連携プレーにより、怒濤のごとく押し寄せたお客様の要望に応えることができた。たちまち停電用の備品は売切れた。
私は感じた。これが町の電気店の存在価値なのだと。我々は今まさに電気店としての使命を果たしている。顔の分かるお付き合いだからこそ、お客様は真っ先ににカイノ電器を頼りにして下さったのだ。困った時はお互い様。この非常事態に少しでもお客様のお役に立てる事が嬉しかった。私はそんなお客様に短いながら声をかけた。

「気を付けて!お互いに頑張りましょうね!」

と。

「はいよっ。どうもね!」

緊急事態での支え合う会話。私は町の電気店としての誇りを感じていた。

随分暗くなろうとしていた頃、私は三男を連れて帰宅した。台所にはすでに孫を心配しておじいちゃんが用意してくれた一台のストーブと一本のローソクがともされていた。貴重なストーブと灯り。

「こんな時はいたずらしないで静かにしてろ!」

と弟達を戒める五年生の長男。そして彼と弟たちは、三人で小学校の校歌を歌い始めた。それも飽きると、程なくして今度はしりとり。電気の使えない生活に、私は、その昔の古き良き時代の子供たちの影を見たような気がした。

私とお義母さんは、小屋から出してきたカセットコンロで夕食作り。ラジオから流れる震災状況と余震に落ち着けと呼びかけるアナウンサーの声。幸いにも、エコキュートからはぬるま湯が出て、トイレも水が流れる。ただ不便なのは停電だけ。我々は恵まれている・・・。主人も無事に戻り、久々に家族全員での食事となった。
食事が終わると、あとは寝るしかない。部屋に戻ると、主人が携帯電話の非常用充電器を見つけた。携帯電話の電源を確保したので、ワンセグのテレビを付けて見ることにした。携帯のワンセグをセットするや否や目に飛び込んで来たのは、この日、隣県でおきた地獄絵図のような映像だった。それは目を疑う信じ難い光景だった。我々は言葉を無くした。

その日は、三月だというのに山形は雪の降る寒さだった。寒さをしのぐため、ダウンコートを羽織ったまま寝た。何度か余震に目を覚ました。

なぜだろう?夢に宮城県東松島市に住む私の友人が、一瞬鮮明に現れて消えていった。彼女が私に会いに来たとは思いたくなかった。
次の日、彼女の連絡先を調べ電話してみた。やはり連絡は取れない。ただただ無事を祈るしかなかった。


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  1. 3月11日が遠い昔のようにも感じていたのですが、
    思い起こすと、ほんと長い1日でした。
    ちーちゃんご家族無事でとにもかくも何よりでしたね。

    東京は、暖かくなってきて、計画停電がなくなっています。
    人も賑やかになってきているようです。

    これから復興に向けて、住んでる所は違えど、
    みんなの気持ち1つだと思うのです。

      • ちーちゃん
      • 2011年 4月1日

      mikiさん

      そうですね。みんな心を一つにして応援していきたいですよね。
      mikiさんもひでおさんも、これまで以上にお元気でご活躍下さいませ。

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