二代目:『海野健治』 Episode2
- 2011年 2月27日
- カテゴリー : ETC . 創業85周年スペシャル
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海野健治は、高校卒業後昭和33年4月より海野ラヂオ店で働くようになった。
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この当時、すでに手広く商売をやっているラジオ店・テレビ店が沢山あった。健治は、海野ラジオ店が近隣の競合店に負けている姿を見て、出遅れた感を否めなかった。競合店の真似をするだけではとても追い付けない...他の店に負けない何かを身につけなければならないと思った。
そこで健治は、テレビの研修会や技術講習会の案内を見つければ、メーカーを問わず店を休んででも東京や大阪でも受けにいった。
健治はその頃をふりかえり、「東京で流行しているテレビに業界の未来を感じたので、この技術を覚えなければならないと思った」と語っている。
一時は国家資格にもなった「テレビ修理技術者」の資格も取得した。テレビの技術者としての腕前が上がった健治は、修理におけるお客様からの信頼も厚くなったという。
そうこうしているうちに、時代はラジオからテレビに移っていった。
全く普及していないテレビは、どこの家にもなかった。しかし、店で待っていても売れない。当時5~6万(サラリーマンの月給が1万3千円と言われた頃)のテレビは簡単に買えるものではなかったからだ。
そこで健治は、飛び込み営業でテレビを販売した。簡単に売れるものではないが、それでも欲しい人はたくさんいる。ただただ、熱心に売り歩いた。朝は日の出から稼ぎ、昼は農家の昼休みを狙って動きまわる。昼飯は取れるときにとった。夕飯をかっ食らうと、又営業にでかけた。
売れれば、配達、アンテナ工事、テレビ設置、調整、説明。
テレビが何台も売れるようになってくると、さすがに健治の体一つでは、用件がこなせなくなってきた。
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まだ若い青年は、土建の仕事の手伝いで海野ラジオ店の近隣に来ていた。
もともと機械などに興味があった彼は、ラジオ店に飛び込み、創業者俊治に弟子入りを志願した。彼は、海野ラジオ店に泊まり込みでラジオの技術を習得し、ラジオの組み立て販売までもするようになった。
そうやって、作業員から技術者となった彼は、ある時、海野ラジオ店を巣立ち、東京:新宿の電器店に就職した。
しかし、彼は、長男である兄の病気のため、実家から呼び戻され、家業の手伝いをすることになってしまった。彼は、実家の仕事を手伝い、そして所帯も持った。
でも時折、海野ラジオ店に遊びに来ては、先輩として健治が受験するという「テレビ技術者資格試験」の手伝いをしたり、俊治と趣味の釣りの話をしたりしに来たという。
健治が試験に合格し、一年がたった時、本格的にテレビの時代が到来した。世の中にテレビ需要の気運が高まる中、健治は遊びに来た彼に、
「せっかく持っている技術を、当社で役立ててみないか?」
と誘った。彼は、悩んだ末、この業界に入ることにした。
昭和34年、初めての従業員、柏倉茂雄が入社した。
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健治の「修理の腕」、柏倉の「技術」がクチコミで噂が広まり、お客様からのラジオやテレビなどの販売や修理依頼が続々と来るようになった。そして彼ら二人は、共同視聴設備の設置や営業で、信じられない数の仕事をこなしていったのだった。
(Episode3へ続く)