「左沢=あてらざわ」の謎

この画像は、山形県西村山郡大江町楯山公園(通称:日本一公園)からの眺望です。左沢周辺に暮らす人々にとってはソウルフルな、故郷の原風景だと思います。
子供の頃より何気なく住んでいますが、左沢には謎がいっぱいです。まずは、名前の謎、由来から。
JR左沢線の終着地点でもある「左沢=あてらざわ」この難解な地名はなぜ付けられたのか?、民俗学者の柳田国男氏も挑みました。また、高校時代、私に地理を教えてくれた左沢出身の恩師、小関昌一先生がまとめられた有力な説があります。
それは、

【その1】
アイヌ語では「ア(支流の)」「テイラ(森林のある低地)」や「アツテイラ(ニレの森林の低地)」があり、また「アツテ(絶壁)ラサワ」で「東岸は絶壁で、西岸は低い」とする考え方もあります。

【その2】
江戸時代の「出羽国風土略記(でわのくにふうどりゃっき)」には最上川を基準にして「あちらの沢」「こちらの沢」といったことから「あちらの沢」=「あてらざわ」になったという説があります。ここでなぜ「こちら=右側」で、「あちら=左側」で定着したのかについては更に諸説あります。寒河江荘の領主大江氏が長岡山に登って西の方を見たときに平野山の左方に見える山谷を指して「あちの沢」と呼んだことが起こりだとする説や、大江町富沢の西にある山岳信仰の山である日光山で、東から昇る太陽を礼拝した時に左に見える沢を「あてらざわ」呼んだとする説があります。

【その3】
「あてら」の「あて」は植物の「アテの木」で、それに接尾語がついたとする説があります。アテの木とはヒバ(アスナロ)のことで、石川県能登半島での呼び名です。

そして、柳田国男氏が考えたのは、その1とその2、そして、次のその4でした。
【その4】
崖や山などに生える木々は、根元部分が曲がってその後垂直に伸びています。その曲がった部分が、大工用語で言う「あて」の部分だそうで、そのあての形とこの最上川の形が似ているので名付けられたという説。

どれが正しいかはわかりませんが、この風景を見る限り、その4の説で推したい感じがします。いい曲がり具合ですよね。

 

この景色も、300年ほど時代をさかのぼれば、江戸時代の頃には、酒田から上ってきた大きな船と米沢方面に積荷をつんで帰る舟が混みあい、街中も人が大勢行き交い、すごい賑わいだったといいます。300年前にタイムスリップし、当時のその光景を見ることができたら、おそらく「日本一!」と叫ばずにはいられないかもしれませんね。

京の文化と出羽の文化の融合、庄内藩と最上藩と米沢藩の分岐点。特異な風習や文化、史跡は今も街に残ります。

日本一公園に登り、曲がりくねった最上川と蔵王連峰や朝日連峰を眺めるもよし、異常に多い橋の数を数えるもよし、また左沢の街中を巡り、史跡をめぐって江戸時代のノスタルジーにひたるもよし、京から流れ着いた三味線の音を聞きながら祭りを見るもよし。

水郷おおえ灯ろう流し夏まつり花火大会は8月15日です。


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